緊急リアルイベント開催!『第7回ソ連ナイト~ソビエト・ロシアのお酒事情 新情報追加その他!』ライブレポート(20.06/21開催)
2020年07月21日
■ ウォッカと酔っぱらいの誕生
ロシアのお酒と聞いて真っ先にイメージするのはやはり ウォッカ でしょう。ウォッカの歴史にも触れていきました。…と言っても、ウォッカの起源は実のところはっきりしていないようで…。
ちばさん
「1386年にジェノバの使節団が『アクア・ヴィタエ(命の水)』と呼ばれるお酒を持ってロシアに立ち寄りました。でもこれはアルコール度数がとても高かったので、主に薬として使われました。」
横山店長
「なんと言うか1周回って、今コロナの影響で消毒液が不足して、酒造メーカーが消毒に使えるアルコールを一生懸命作っていることに通じるものがありますね!」
ちばさん
「…ですね。その後、1429年にもまたジェノバの商人達が『アクア・ヴィタエ』を持ってきて宮廷で試飲も行ったのですが、この時もやはり度数が高くて有害とされ、輸入が禁止されました。しかし、この『アクア・ヴィタエ』が、後のウォッカの語源となったと言われています。」
そして伝説では、1433年にモスクワのクレムリン(宮殿)内にあったチュドフ修道院の修道士・イシドルがロシア独自のレシピを開発し、ウォッカの原型とも言えるお酒の製造と販売を国家で管理するようになったそうです。(諸説あるようです…)
ちなみにウォッカのアルコール度数を40度に決めたのは周期表を生み出したことでも有名なロシアの科学者・メンデレーエフ であるとの逸話も残っているとか。この説は信憑性に乏しいとの指摘もあるそうですが、
ちばさん
「でも『おそロシ庵』のツアーでウォッカ博物館に行ったらメンデレーエフの肖像画がちゃんと飾ってありましたよ!」
横山店長
「もうどれが本当だか分からない!(笑)」
おそロシ庵ツアーより
ウォッカ博物館のメンデレーエフ
ウォッカはワインや蜂蜜酒よりも簡単且つ安価に製造でき、高アルコール度数ですぐに酔えることから、大衆の間に広まり、1533年にイヴァン大帝がモスクワに皇帝酒場(いわば公営の酒場)を設けたことで、ウォッカはさらに多くのロシア人に飲まれるようになったそうです。
ちばさん
「そして、誕生したのが、そう ”酔っぱらい” です!」
”ロシア人=大酒飲み” というステレオタイプもルーツを辿るとこの時代に辿り着きます。
ちばさん
「ちなみにこの頃、宴会に遅れたら一気飲みをしなければならないルールもできました。」
定めたのは皇帝ピョートル1世
横山店長
「俺の故郷(高知)と一緒だ(笑)。今これをやったらパワハラになってしまいますけどね…。」
ちばさん
「スライドに書いてありますが、量がハンパないです。現代では50ミリリットル程度ですが、当時は1.5リットルを一気飲みしなければなりませんでした。」
横山店長
「死にますね…。」
これぞおそロシア…。
また、お酒を飲む機会が増えたことにより「お酒を勧める言葉」もこの時代に次々と生まれました。
例えば、このようなフレーズ。
(クリックorタップで拡大表示)
ちばさん
「最後の2つはお酒の席に限らず日常生活でも良く使われるものです。特に3番目、 ”神様は三位一体がお好き” というフレーズは後ほどでテストに出ますのでよく覚えておいてください!(笑)」
【 ソ連時代のお酒事情 】
さて、時代が飛んで、ここからはソ連時代のお酒の話へ…。
ロシア帝国は1914年7月31日に禁酒法を導入。1917年のロシア革命後もボリシェヴィキが禁酒法を維持していました。しかし、1923年にアルコールの製造を再開。当初政府は税収増を見込んで飲酒を奨励していたのだそうですが、例に漏れず再び ”酔っぱらい” が増加! このままでは健康や経済に悪影響が及ぶと判断した政府は一転して 反アルコール を推奨し始めたという。その一環として、
お酒で酔わない健康的な
ライフスタイルを促進する雑誌
『しらふと文化』を創刊したり…
反アルコールを訴える
ポスターや動画を次々と制作したり…
新たな法律や政策も展開されました。
- 大酒飲みとの戦いを強化、及び高アルコール度数飲料販売の整理 -1958年
- 大酒とアルコール依存症との闘争強化法令 -1972年
ちばさん
「また当時、トラ箱 という酔っぱらいの一時保護施設がありました。トラ箱に計6回入れられた人はもはや手に負えないと判断され 『酔っぱらいの刑務所』 と呼ばれる 労働治療院 へと送られました。ここは総務省管轄で刑務制度の一部として運用されていて、受刑者は社会復帰のためアルコール依存症の治療をしながらコルホーズなどで2年間働いたそうです。」
トラ箱へ酔っぱらいを搬送
トラ箱内部の様子。
手前のおじいちゃんが完全に
出来上がっているのがなんとも…。
しかし、それでも増え続けるアルコール依存者…。
ちばさん
「1970年代後半にはアルコールの消費量がソ連史上最大レベルになり、その後もドンドン増加していきました。1984年の国民1人当たりの年間のアルコール消費量は合法アルコールのみで10.5リットル。密造酒も含めると14.5リットル以上にもなりました。それがどのぐらいの量というと…、、、」
これぐらいの量!
’(大人の男性一人当たり90~110ボトル)
1985年5月、ついにより強い節酒法として「酔っぱらいとアルコール中毒に関する措置」が発令。
「しらふが正常」という
当たり前過ぎるスローガンに
客席から笑いとどよめきが漏れた。
この節酒法はお酒の販売や飲酒を完全に禁止するものではなく、あくまでお酒の販売の場所と時間を制限したものでしたが、お酒の流通の大幅減を招きパニックをも引き起こしたという…。
節酒法で市場からお酒が消え、
お店に酒を求める人たちが殺到!
チンギスさん
「まさに 『仁義なき戦い』ですねぇ。(苦笑)」
■ 売っていないなら造ればいい!?
それでもソ連の大酒飲みはとても逞しかった。お酒が買えないと分かると、なんと自らお酒を造り始めたのだとか。
ちばさん
「自分で(сам)蒸留する(нять)という言葉から『サマゴン(самогон)』と名付けられた密造酒です。材料は水と砂糖とイースト。サマゴンは大流行したのですが、いかんせん物不足の深刻なソ連時代です。次第に材料の砂糖の入手が困難となり、密造酒すら飲めない状況に追い込まれてしまいます。」
(next:ソ連の酒飲みがお酒代わりに飲んだモノとは!?)